コンプレックスと向き合う 10

<愛はあるか 1>


”この限られた空間で自然の風情を楽しみたい”
そんな思いで続けている庭作りだが
実際に庭で見る植物の様子とはまた違った風情が
写真の中にはある
それはきっと、植物を愛でる心と共に
それらを如何に美しく撮るかという写真撮影への熱意
使うカメラへの愛着といった複合要素が
しばしば実物以上に庭を美しく表現するからだろう

supaba2008816-1.jpg

夫がカメラを構えている時は
どうも側にいると邪魔になりそうな気がしてなるべく離れているようにしているが
その集中している様子を見るといつも
あれは”愛”だなと思う
被写体も含め、写真を撮ることそのものへのこだわりや
機械(カメラ)を非常に大切に扱う仕草も
すべてひっくるめて
そこに愛があるかどうかで行為も結果も変ってくる
つまりは
自分の撮りたい(納得のいく)写真を撮るためには自らの格好もいとわず行動し
そこから生きた写真が生れるのだ

コンプレックス(劣等感)とは
常に人と比べることによって起こるもの
自分が人からどう思われているか、愛されているかは重大な関心事であり
それを確認できないことで焦りも生れるし、悩みもする

ところが、他人がどう思うとか、そういう次元の問題を、愛は克服するらしい
”自分の撮りたい(納得のいく)写真を撮るためには自らの格好もいとわず行動”するというのは
要するに、人目を気にせずその場に寝転がったり、不自然な体勢でカメラを構えるということで
その姿はほとんど”変な人”だが
出来た写真を見れば、なるほどこのためかと納得させるものがそこにはある
そして
写真から伝わるものがあって、それが(自分も含めて)見る人の心を動かすならば
写真へ注いできた愛は、別の形で自分の元に戻ってくることになる

今回、西洋ニンジンボクとアンゲロニアが咲きそろった写真も夫に撮ってもらった
ninjinboku2008816-3.jpg

わたしは植物への愛はあると思うが
残念ながら機械への愛が欠如しているので
普段写真を撮っていてもあまり思うようには撮れないことが多い
サイトの中ではいちいちこれが夫のこれがわたしのと解説はつけていないけれど
見る人が見ればその差は一目瞭然だ
だから、ここという時の写真はいつも夫に頼むことにしている
誰かに見せたいという以前にわたし自身が見たい

さて、昨日はちょっと嬉しいことがあった
わたしが長年願っていたことがひとつ実現に至ったのだ
それは息子の、教会での賛美歌伴奏者デビュー

6歳の時に自ら望んでエレクトーンを習い始めた息子は
当初わたしが想像していた以上に音楽好きに育った
好きなジャンルも、クラッシックからロックや軍歌に至るまでさまざまだが
中でも賛美歌は小さい時からお気に入りで
こちらが何も言わなくても自分でよく弾いて練習している
だから、いずれ伴奏者になるであろうことは想像できたし
親としてもそうなってくれれば嬉しいと思ってはきたものの
このことに関しては意外なほど息子は慎重だった

いつだったか、息子はこんなことを言っていた
「人に聴かせる演奏をするためには1万時間の練習が必要らしい」
1万時間と言われてもピンと来ないのでざっと計算してみたら
一日3時間練習しても10年かかることがわかった
いや、音楽演奏会ならともかく
賛美歌伴奏は技術よりも心が問われる世界だからそんなことにこだわらなくてもいいのだが
そして、息子自身もそれは知っているけれど
やはり、他の伴奏者との技量の差や
何よりも自分の中のこだわりとの戦いがネックになって
今まで何度か踏み出そうとした足にストップがかかっていたのだった

呆れるほどに無謀なところのある息子だが
本質的には慎重派で
何しろ赤ちゃんの時から段差を手で測って高さを確かめてから降りていたような子だから
今回のことが実現に至るまで長い年月を要したこともうなずける
踏み出しかけては土壇場で「自信がない」と正直に言ってとどまってきた背中を押したのは
やはり音楽に対する愛なのだろう
賛美歌に対しても、楽器に対しても、音楽理論に対しても息子はかなりの愛着を持っていて
その様子は身近にいれば自然に伝わってくるものだ
だからこそ、いつかその時が来ればいいとわたしはずっと待っていた

伴奏者の務めを無事に果した息子は
みんなから「上手だった」「かっこよかったよ〜」など賛辞を送られて照れていたが
これで自分の中のひとつの山を越えた気がしたのだろう
今度は各種式典にも対応できるように、まだ中途半端になっている曲も練習し始めた
かくして、息子は自分の居場所を新たに得
次の目標に向けて歩き始めている



(2008.8.18.記)


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