音楽語り 3〜協奏曲 Concerto


中学時代のわたしは
新しい自由な音楽スタイルを追求する道へとのめりこんでいく一方で
学校の音楽の時間はいつも退屈で仕方がなかった
いや、退屈だけならまだしも
あんなに好きだったはずの歌でさえ、あることをきっかけに
歌う気持ちも失せていくことになる

それは、恒例の合唱祭に向けての学年練習の時のこと
指揮をしていた先生が
「その辺、地声で歌わないで!」とこちらを見ながら何度も言うのだ
そして、どうもその目はわたしに当てられているように見えた
おかしい・・・わたしはこれまでずっと裏声で歌ってきたのに・・・?
そう思っていたら、練習後、結局直接注意されるハメになってしまう
いや、それは絶対違うのだ
だってわたしは試しに自分の声をぐっと落としていた
それでも先生の耳には相変らずカンにさわるような声が聞えていたとすれば
それはわたしの声じゃない
でも、わたしは言い訳しなかった
根に持つくらいなら言い訳すればよかったのに
思春期の子どもというのは得てしてそんなものだ
そして、わたしは合唱に対する熱意を完全に失った

こうして、ピアノが苦手なわたしが
たったひとつ自信を持っていた歌もやる気をなくし
もうこれで音楽はただ聴くだけになっていくのだろうかと思った頃
それでもひとつだけ弾いてみたい楽器があった
ギターだ

哀愁漂うギターの音色は、日本人の感性にあっているというが
ギター協奏曲であるロドリーゴの『アランフェス協奏曲』は
今でもわたしの好きなクラッシック曲では5本の指に入ると思うし
当時流行っていた日本のフォークソングもギターが中心で
中でも、個人的にはチューリップの『心の旅』のような曲が好きだった
そして、もちろんロックにおいても
アコースティックからエレキまでさまざまなギターが活躍する曲に親しみ
自分の手でもこの楽器に触れてみたいと思うようになっていったわけだ

その後、親に頼んでフォークギターを買ってもらい独学で練習
(後にクラッシックギターにすればよかったと後悔したのだが・・)
最初に練習したのはやっぱり『グリーンスリーブス』
ちなみに、わたしはグリーンスリーブスという名のバラを持っているが
それは花姿だけではなく、名前にも惚れて買ったのだった

さて、この頃になると
さすがに「自分」という人間も読めてきて
わたしは習い事には向いていないとか
わたしを理解する先生に出会うことも難しいだろうと
つまり、自分がそういう面でとてもわがままであることに気づいていた
わがままな人間は人に頼らずひとりでやるに限る
どうせ自己満足のために弾くのだから
基礎レッスンなんて重要に思えなかったし
好きな曲を好きなように弾いて楽しければそれでいいじゃないかと
音楽教育に対して、どんどん否定的、反発的になっていくのだった

このように
学校での音楽はちっとも楽しくなかったが
ロックつながりの友だちはたくさんできた
(その頃はロックの布教活動に精出していたからでもある)
また
2年間在籍した落語研究班をやめて演劇部に移ってからは
自由に演じる楽しみも得た
なお、落研をやめたのは、例の先輩が卒業したという単純な理由からで
その頃には下級生がたくさん入部してきて廃部の心配もなくなったからだ

ギターを弾くようになってからは
はじめて楽器を弾くのは楽しいものだと知る
多分、楽器にも相性があるのだろう
そして、高等部に入った頃だったか
一度だけ文化祭で友人のフォークグループに参加を依頼され
アリスの『帰らざる日々』のサイドギターとコーラスを担当することになった
その出来はともかくとして
それは唯一の経験であり、良い思い出となったとなったことは間違いない
というのも、その時久しぶりに歌うことが楽しいと思えたからだ

今もその伝統が続いているのかどうかは知らないが
当時は、高校3年になると、合唱祭でヘンデルの『ハレルヤコーラス』を歌うのが恒例だった
中学の時から合唱祭はずっと適当に過ごしてきて
高校2年の時には美術を選択していたため、合唱祭には参加しなかった
(本当は見学くらいしなくてはならなかったのを数名の友人と脱走〜)
でも、最後の『ハレルヤコーラス』の時は一生懸命歌った
その頃は、もう歌うことにわだかまりがなくなっていたし
もう18歳なんだからいい加減大人になって卒業しようかと思ったのかもしれない

音楽からはじまり
音楽に失望し
音楽に助けられ
音楽の多面的な楽しみを知り
感性を共有する友人達と共に
歌詞の翻訳と、楽器いじりと、素人音楽評論に明け暮れた青春時代が過ぎて行く・・・



(2009.2.3.記)


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