青春讃歌 24〜卒業


昨日、娘は高校を無事に卒業し
お世話になった先生方や友人たちに別れを告げた

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卒業式後、各教室に戻ってのホームルームでは
通常は担任の先生が生徒たちに対して
新しい道へ進む心構えなどを説くことが多いものだが
今回は、先生ご自身
このクラスのメンバーとの別れがただただ寂しい&惜しいとの気持ちが
終始ストレートに現れる涙の会となった

”個性的なメンバーが奇跡的に集まった”と表現されたこのクラスには
何らかの特技を持つ”職人”が多く
娘からもよく「○○はスゴイよ〜」と、色んな友達自慢を聞かされたものだ
そんな刺激的な環境の中で
娘自身もいよいよその個性を伸ばせたことは
本当に幸せなことだったのだと今しみじみ思う

公立高校の卒業式は昔から形式的で
祝辞の内容もたいてい同じような言葉が並ぶ
いつの時代の卒業式にも必ず出てくる話は
『親や先生、友達など、自分を支えてくれた人への感謝の気持ちを忘れずに』というもの
そして、今回もこの同じパターンの話に混ざって
『運の良い生き方を』という話がちらっと出ていた

わたしももう半世紀近く生きてきて
”運が良い人・悪い人”って確かにあるなと思う
ただ、この運の良し悪しを自分の生き方や信念と関連付けて考えない人は
単純に自分を不幸な星の下に生れた悲劇のヒロインとして嘆いたりもするが
色んな人の人生を冷静に見続けていると
自らを不幸にする選択ばかりする人があることもわかってくるものだ
つまりは、運が悪くなる生き方を知らず知らずの間にしてしまっていても気づかない
事が上手くいかないのを自分に原因があるとは思いたくなくて
何か別のところに原因を求め、それが最後に運命を呪うところに行き着いてしまったり、、、

今の若い人たち見ていると
自分を何か素晴らしいことができる者と過大に評価するかと思えば
自分には生きている価値もないとまで卑下してしまう極端な心の揺れがあり
同じ一人の人の中で、自分への評価が同じ日のうちにも極端に変化するような
いわゆる情緒不安定な部分を感じるケースが結構あるなと思われる
あるいは、過大評価だけに偏っている人、自分をやたらと卑下するだけの人もあるが
いずれにしても、過大評価と過小評価の間の部分
つまり”あるがままの普通の自分”に位置することが難しくなっている傾向があるようだ

昨日のニュースによれば
政府はこのたび国民の幸福度を調査することにしたとのこと
何をもって幸せとするか?との幸福感の基準は実にあいまいだが
わたしとしては
その人が”あるがままの普通の自分”をどう受け入れているかで幸福度は異なると思っている
通常、”普通の人々”には
世間の大きな賞賛も莫大な収入もない
これが普通というものだ
究極の話
「屋根のある家に住んで、三度のご飯が食べれて、暖かい布団で寝ることができれば幸せ」
という基準で生きている人は安定した幸福感を持っている

卒業が近づいてきた頃から
娘は何度も「自分はここまで楽して生きてきたと思う」と言っていた
この言葉は取り方によっては誤解を招くのでどう書いたものかと迷うところだが
娘自身生れてからここまでの18年、苦労や努力がなかったわけではない
むしろ、人の知らない苦労をさせられ、努力を強いられたことも色々あった
ただ、それらがすべて無駄にはならず
自分の力になり、見える形になって帰ってきたことを経験しているので
すべてのめぐり合わせはみな良かったのだと今は思うのだ
そういう意味で、娘はこれまで
”運の良い生き方”をしてきたといえるだろう

人生はパズルのように
それぞれがはまるべき穴があって
○は丸い穴を、△は三角の穴を選んでいけば一番楽なのに
わざわざ別の形のところへ入り込もうとしてはじかれてしまうのが
運命に逆らった、運の悪い生き方になるようだ
はまるべき穴が間違っていたからともう一度本来の場所に戻ってみても
時が違えば今度は穴の形が変わってしまっていたりと
間の悪い人はどこまでも間が悪い・・・というのは夫の談
今までたくさんの人々の人生に関わってきて出た結論がコレだ

分を超えた過大評価や、卑屈な過小評価の道に迷い込んでいる人は
いつまでも自分の居場所が見つけられない
だが、自分にふさわしい、各々にとっての普通の場所にはまれば
まだ見えていなかった個性が芽を出し
そして運命は動き出す

小心者の娘は、ともすれば卑屈な過小評価の道に迷い込むタイプだが
高校生活の3年間には、自分を表現する機会がたくさんあって
自然と人前へ引き出されることも多く
おかげで、今は舞台に立ってもあがることがほとんどなくなった
もしこの学校にこなければ、これほどの経験はできなかったであろう
「青春賛歌シリーズ」の中では
3年生になってからの日々をリアルタイムで書いてきたけれど
それはほんの一部だけで
他のたくさんの思い出は記憶の中にしまってある
「すごく濃い高校生活だったよね」
そう語る娘の言葉に
何かと忙しかった、そして充実した日々がよみがえってくる

よく自分の成長に必要な人々(環境)と出会うことを”運命の出会い”というが
その運命の出会いは
卒業式の祝辞で語られる”自分を支えてくれた人々への感謝の気持ち”に直結し
同時に、運命の出会いを与えてくれた神さまに自然と感謝せずにはいられない
だから娘はしみじみ思うのだ
「自分の頑張りでやってきたとは思えない」
「自分はここまで楽して生きてきた」と・・・

最後のホームルーム後は
それぞれが持ち寄った食べ物を広げての打ち上げ会があったが
さすが、ある職人は全員の名前入りのクッキーを作って持ってきた
ちなみにその下はケーキで、切ると縞模様になっているらしい
多分タイガースファンの先生向けに考案したのだろう

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これからそれぞれの道に分かれていく彼ら
どんなに名残惜しくても、時は止まらない。。



(2010.3.2.記)



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