音楽と共に生きる 9〜道の行方


わたしが風邪で寝込んでいる間に
娘の方はすっかりのどの調子も良くなって
いつもと変わらない声が戻ってきた
いや、厳密に言えば
今までよりも更に高い音域の声が出るようになったとのことで(?)
これは不思議なことだけど
以前やはり風邪をひいてのどの調子が悪かった時にも同様の体験をしているらしい
なぜ調子が悪いと高い声が出るのかというと
調子が悪いからこそ、体がいつも使わない音域の声を使おうとして
結果的に更に高い声を出すきっかけになるようだ
まあ自分の事じゃないのでわたしにはよくわからないが
人間の体には不調な部分を別の部分で補おうとする働きがあるので
それを上手く伸ばすことができたら可能性はもっと広がるのだろう
だから不調をやたらと嘆く必要はない・・・とは言っても
わたしは物事をすぐ悪い方に想像する心配性の人間だから
今回も娘の声の不調を聞いて
すぐに「もう今までのような声で歌えなくなるかも?」
という心配が起こったのは言うまでもない
でも今はすぐこうも思うのだ
「いやいや、それはわたしが決めることじゃないでしょう」と、、
そして、つくづく思うことは
ちょうどスポーツ選手が運動機能を失えば選手生命も失うように
歌手もまた声を失えば同じことになるということ
これは、ひとりの人間が”生かされている”こともみな同じで
今回風邪で調子が悪い間
わたし自身もあらためて”生かされている”ことを考えさせられた
人は誰でも自分の人生をあれこれ考えはするけれど
それは”生かされている”ことが前提なわけで
病気などで自分の弱さを実感する時だけそれを思い出す、、

早いもので、娘の学生生活も残り約一年となった
さあこれからの一年間、一体どのように導かれていくのだろう?!

今日は、植物園から4月の演奏会についての電話がかかってきていた
4月はすでに遠方での初めての演奏依頼が一つ決まっているし
もうひとつのところも近いうちに連絡があると思われるが
こうして先々の予定が埋まっていくのは、みな向こうからやってくるものばかりで
自分であらかじめ計画を立てることはない
そして気づけば予定は無駄なくぎっしり詰まって
後はそれを順番にこなしていく日々だ
「先の事は自分では決めない」
以前そう宣言した娘は、ちょうどパズルのピースがハマっていくような
無理も無駄もない不思議な計画の中で生きている

3月5日のオーケストラ共演まであと3週間となり
チケットの方も相変わらず売ること自体は苦手だが、少しずつ売れているらしい
じゃあ3週間後にはどうなっているかなんて誰にもわからないけれど
「先の事は自分では決めない」と決めた人間は
売れようが売れまいが、その時の結果が一番いいのだと
そのように潔く受け止めるのが常だ

わたし自身、自分の人生を振り返る時
若い頃願ったことは何もかなえられなかったように思う一方で
では昔願ったものを今あるものと引き換えにしたいかと問われれば
何ひとつ失いたくはないと思う
では自分の願いの意味って何なのだろう?
少なくとも、自分の理想は完璧ではないということだけはよくわかるが
もし自分の願いや理想に固執することによって問題が起こるすれば
それは誰の責任になるのだろうか?!

人は自分の頭で理想を描き、その道に歩もうとするけれど
無謀な人は無茶な歩みをして自滅し
心配性の人はチャンスをことごとく自らつぶしていく・・・
そこで自らの行いを省みることのない人はこういうのだ
「神さまなんかいない」と

そもそも「神さまなんかいない」という人は、神の存在を否定しているのに
便利屋のような神さまにはいてほしいと願っている
それはちょうど、誰が生んでくれと頼んだのか?と親を問い詰める子どもの姿に似て
そこではあくまでも自分が優位だから
”生かされている”という感覚はないのだろう

 
 「人は心に自分の道を考え計る
  しかし、その歩みを導く者は主である」
          (箴言16章9節)


下の写真は、娘が制作中の「猫の着ぐるみ」だ
neko2015222.jpg

昨年やっと”同好会”に格上げされたミュージカル同好会による
『人間になりたがった猫』の上演が10日後に迫っており
主役の猫ライオネルの衣装を娘が作っている
娘の役は、魚屋のおばさんトリバーなので
適当に手持ちの服でまかなうとして
この猫の着ぐるみだけは自分の最後の仕事にしようと思ったようだ

せっかく同好会になったとはいえ、今の4年生が卒業すれば
今回の公演で活動が終わる可能性は十分にある
何しろ娘たち卒業生も混じって成り立っているのだから
今後についてはみんな予定はわからない
でも、今やるべきことを一生懸命やる
いつも言えるのはそれだけだ
必要ならば、人材が増えて、活動はこれからも続くだろう

ミュージカル本番の翌日には
また幼稚園に行って「エルサ」を演じることになっている
一度きりしか会うこともないであろう子どもたちとの出会いに
何の意味があるかと問われれば
それが自分に与えられた役目なら一生懸命やる
それで子どもたちが楽しいひとときを過ごせたらいいじゃない?・・と
それだけだ

そこには損とか得とか、先がどうなるとか
自分の頭(知識や経験)でははかり知れないものがある
狭い世界しか知らない人には意味のない事も
広い世界を知っている人には意味のあるものになるのはよくあること
では誰がその広い世界を全部知っているというのだろう?
そう考えると
「先の事は自分では決めない」
というか「決められない」のは当然なのだと思える


(2015.2.12.記)



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